鞠智城の戦い

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みなさんこんにちは

今回は城です。久しぶりって感じでもないですが、記事にするのは3つめですね。

前回は有智山城、前々回は長岩城でした。その流れでいくと、メジャー級の城ですね。どんだけマイナー城巡りしてるのか、という話ですが。

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よほどの城好きでないと知らない城ばっかりで申し訳ない上に、今回は戦国時代にもかすってないので、一緒に歴史の勉強もしましょう。

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鞠智城とは

鞠智城入り口

熊本県菊池郡との間にある城です。古代山城(朝鮮式山城)のひとつであり、同様の城の中では最も南に位置しています。

ちなみに、全く関係ありませんが以前上げた泥打ち祭りの記事の場所、朝倉市杷木には、神籠石式山城である杷木神籠石があります。今度近くを通ったら行ってみますね。

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鞠智城で特徴的なのは八角形の建造物。道教の影響を強く受けているそうで、国内に同じ構造の建造物はないそうです。海外だと韓国に同様の遺構が残っているとかで、やはり半島から伝わったものなのでしょうね。

この八角形の建造物は城塞ではなく、鼓楼と呼ばれる建物だそうです。太鼓の音で合図を送る役割を持ち、戦時下のものではなく平和な時代のものだとか。

300年ほど存続したようですが、最後まで戦いに用いられることはなかった城です。

大まかな歴史の流れ

まずは西暦562年以前のこと。朝鮮半島に任那という領地を持っていた朝廷は、そこを通じて朝鮮半島の進んだ技術を取り入れていました。562年以前ということで、これまでに新羅に滅ぼされているようですね。これで日本は大陸への直接影響力を失いますが、任那滅亡後に新羅に対して調と言われる租税を要求していたりと間接的な影響力は保有していたようです。

当時の朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の三国に加羅と呼ばれる小国群があり、ここに任那もありました。日本列島に最も近い地域のことで、大陸系よりも日本国内の古書に記述が詳細です。

西暦600年代のこと。

西暦627年 新羅が百済から攻められ、唐に援助を求めるも内戦中。

しかし百済と高句麗が唐と敵対したことで新羅を支援する流れに。

新羅の実力者である金春秋(武烈王)はこの二国に対抗するため、唐化政策を取ります。

西暦642年から、百済は再度新羅を侵攻します。

西暦651年、倭は新羅征討が進言され、中大兄皇子(天智天皇)に却下されてます。

西暦653年と654年には連続して遣唐使が派遣されています。これは、半島と大陸の情勢を見据えてのことだといわれています。

西暦654年は大干ばつが半島を覆います。が、百済は義慈王が飢饉対策をとらず、西暦657年にも干ばつが発生。

その間に西暦659年、唐は百済への出兵計画を済ませます。倭が送った遣唐使は足止めを食らいます。

西暦660年、唐は新羅を従軍させ百済へ進軍し、百済を滅亡させます。

高句麗征伐が目的の唐は、高句麗に向けて進軍します。その後、百済では倭に同盟の担保として質にとられていた豊璋王を擁立し、再興しようとする働きが起きます。

中大兄皇子(天智天皇)は百済の要請に応じ、唐・新羅連合軍に対して出兵を開始します。

西暦661年、斉明天皇が半島に向けて出兵するも、那の津で崩御。

その後、別の司令官をたてて661-663年にかけて戦闘を行います。が、あんまり戦上手じゃなかったようですね……。敗北して敗走します。

この戦いを百済の役として、西暦663年、百済は滅亡します(白村江の戦い)。

これと平行して行われていた唐の高句麗征伐は、西暦668年に唐軍勝利で幕を閉じます。豊璋王は白村江の戦いの後、高句麗に亡命していましたが、高句麗の滅亡と共に捕らえられています。

これをもって、唐に敵対するのは倭のみとなります。

実際には新羅が高句麗の残党をそそのかして蜂起させたり、新羅自身が唐に対して牙を剥いてみたりととても統一国家にはならなかったんですね。

ということで半島の情勢は蠢くなか、時の天皇(天智天皇)は本土防衛のために城を築きます。

一例として大宰府防衛のための水城(福岡県太宰府市など・天智天皇3年)・大宰府防衛のための大野城(福岡県大野城市など)・基肄城(佐賀県三養基郡など・天智天皇4年)最・前線防衛拠点としての金田城(長崎県対馬市・天智天皇6年)などがあります。

この中に今回の鞠智城があるんですね。

築城年不明ですが、大体上記の城と同じ年代に築かれたものと考えられます。

なんとなく時代が見えてきました?聞きかじりの知識なので間違ってたら教えてくださいね。

温故創生館

温故創生館

鞠智城敷地内には、温故創生館という資料館があります。

熊本県立装飾古墳館分館ということなので、県立の施設なんですね。ちなみに本館は隣の山鹿市にあります。

山鹿燈籠祭りの土地ですね。

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ちょっとした案内所かと思ったらなんのなんの、立派な内容でございました。

パネル資料に映像資料、立体展示もあります。

出土品の展示もあり、しかも撮影可。時間があまり取れなかったため、じっくり見ることはできませんでしたが、勉強になりそうな内容ばかりでした。

映像展示の途中に入ったんですが、係のお姉さんが気を使ってくれて始めから回してくれました。そのとき、僕がひとりだったからですけど。

見所はたくさんありますが、個人的には地元の高校生が作った復元模型と平成20年に出土した銅造菩薩立像は見て欲しいですね。

八角形の鼓楼や兵舎など、精密で立派なものです。学校行事の一環として行われたんでしょうかね?

また、レプリカと復元モデルが並んで展示してある銅造菩薩立像は、鞠智城の建設に百済の亡命貴族の関与が感じ取られるもののひとつです。

2階からは鼓楼などが一望できますよ。

遺跡

ひととおり歩いてきたので、ご紹介です。

まずは、広場。ここには鞠智城鼓楼などがあります。

広場の脇から、いったん休憩所方面に上っていきます。

桜は咲き始めで、ほとんど花が開いていなかったんですが、なんとか一緒に撮りたいなと思い、悪戦苦闘してみました。

少し歩くと休憩所がありますが、現在は閉鎖中でした。

温故創生館で西側土塁は整備していないので、行きにくいと言われましたので、元気があるうちに西側土塁へ。

振り返ると休憩所

途中分岐がいくつかありますが、休憩所からまっすぐ西に歩いていくだけです。舗装はされていないものの、下草は刈られていますし歩きにくい、と言うほどのことはないですね。重量級の機材を抱えている方は控えたほうがいいかも……くらいの感じです。

奥がクワド石

まず見えてきたのは『クワド石』です。

横から見るとカエルに見えるそうで、古くから地元住民の信仰の対象になっているとのこと。しめ縄がしてありました。写真でいうと、奥の石です。クワド=カエルだそうですが、クワド=カワズが訛ったもの……かな?発音的には近そうな気がします。

その近くに涼みヶ御所があります。煤見ヶ御所ともいうようで、大野城からの狼煙などを見ていたのかもしれませんね。

その後、シャカンドン(左官どん)といわれる広場へ。多分ここがシャカンドン。くらいの自信のなさ。看板など何もない。温故創生館で言われていたことだけれど。

この先にも道は続いていて、行き止まりになっている場所もなんか名前があったはず。仏教系の印象を抱いたので、菩薩ナンチャラとかそんな感じだったっけ……。うろ覚えすぎ。メモすればよかった……。余裕ぶっこいているとこんなことになります。どこにも資料がないってどういうことだよ。

ここまで歩いてきて、行き止まりになったので戻ります。

西側土塁に入る直前に看板があり、いったん貯水池跡へ。ここは百済系銅造菩薩立像が出土したところ。

ぐるっと貯水池跡を回ったせいで、かなりの距離を歩いてしまった。ここから南側土塁方面に向けて歩くのが面倒になってきた。でも舗装されているそうだし、きっと楽ちんだと自分に言い聞かせる。

いったん休憩所方面まで戻り、灰塚を目指す。上り階段の急な角度に汗が止まらなくなりつつ(まだ4月なのに……)、一路頂上を。

登ってしまえば気持ちいい。天気もまだまだいい感じ。

方角盤を載せてますが、画像編集してますので、なんか妙な感じになってます。悪しからず。

不動岩がある方向に60数キロ進むと大宰府があるようです。不動岩の写真、色合いがおかしいですが400mmで撮影したので、モヤが残ってしまって、コントラスト上げたせいです。快晴の日にまた見たいところ。

奥の方に桜が咲いていましたが、どうやって行ったらいいかわからなかったです。

灰塚から下ると、池の尾門跡に向かうことができます。

やたらと長い階段を降ります。下の道を右手に曲がって少し進むと、広場が見えてきました。池の尾門跡です。門の礎石が展示してあります。ここにはつくしがたくさん生えていました。

つくしおいしいですよね……。

雰囲気時に城内外の境界がわかるような感じで個人的には楽しい場所でした。

道を引き返し、先程下りてきた階段を通過します。案内板が見えてきました。

この案内板……南側土塁線に先に行こうと思ったんですよ。上の写真の三枚目を見てください。約300m先ですよね。1枚目の奥にあるのが、四枚目の池丿尾間歩のことです。トンネルですね。とりあえず、そっちに行ってみます。

トンネルを抜けると、すぐに看板通りの右曲がりの道があります。竹林ですが。

そこを抜けると、山の斜面。ここ……道?ちょっと進んでみますが、それ以上は行けなさそう。さすがに観光するような状況ではありません。トンネルを抜けて右に曲がらず、少し先まで歩いてみます。

……集落に出ました。どう見ても鞠智城域ではないですね……。近くで薪割りしていたおじいさんに道を尋ねます。が、どうも要領を得ない。草は刈ってあったかなど聞かれても、僕も道に迷っている身。とりあえずこの道ではない様子。丁重にお礼を申し上げ、引き返します。実は竹林の先をどうにか進めないか右往左往していたので、びっくりするくらい時間を消化していました。さすがにその後の行程に支障をきたしそうなので諦め、次は堀切門跡に進みます。

道案内板

途中、丘がありまして、せっかくなので寄り道しようと向かってみることにしました。丘に登るくらい数分のロスですし、南側土塁線に行けなかったから他は見ておこうと思ったんですよね。

するとその先に橋が。橋を超えると広場があり、看板が見えます。看板には……南側土塁線の文字が。その先に進んで確認すると、南側土塁線300m先のあの看板が見えます……。

看板の後ろのつづら折りじゃないか、この道。右に再表示してますので、よく見てください。棚田のように段々になっていますね。これ、道です。完全に無駄な回り道してただけだったのか……。

とりあえず南側土塁線に行けたので良しとしましょう。桜も咲いてたし。

気を取り直して堀切門跡に向かいます。

堀切門は、珍しい門の柱(軸)を差し込む軸摺り穴が2つ残された門礎石です。支柱を差し込む柱穴も見つかっていて、門の位置がはっきりわかっている遺跡でもあります。

この軸の間に門があって、それを通り抜けていたのかと思うと感慨深いですね。石としては巨石ですが、門としてみると狭い印象があります。現代文明って素晴らしい。

では次に深迫門へ向かいます。

案内板を見て、道なりに進むと上り坂の先に違う案内板を発見。深迫門は戻り方面らしい……。また間違えたのか。上り坂を上がってしまったので、正直疲れと合わせて行くのやめようかと思いました。が、徒歩1分だし、行くしかないかと。

意外と急な下り坂を下り、深迫門へ向かいます。徒歩1分だからと向かいましたが、ここまでの坂道は想定外。帰りを考えるとちょっとしんどいです。

深迫門ははずれにあるのもあってか、割と乱雑な印象。このブルーシートってなんか意味あるんでしょうか?ボロボロになってますが。

門礎石も見たし、全体的な印象もしっかり掴めてきたので温故創生館に戻りましょう。

最後に見た看板の先は、ベンチセットがあって、ちょっとくつろぐにも良さそうです。高台で見晴らしも良かったですよ。

最後の上りを頑張ったら鼓楼が見えてきます。すぐに駐車場に着いて、今回の冒険は終了です。

かなり長居してしまった……。

アクセス

熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館

〒861-0425 熊本県山鹿市菊鹿町米原443-1
TEL:0968-48-3178
FAX:0968-48-3697

その性質上、あまりアクセス性がよくないので、行く前にはルートをしっかり確認しましよう。車だと問題ないですが、公共交通機関は付近にありません。山鹿の交通センターからバスが出ていますが、本数が少ないので事前確認をお願いします。最寄りバス停は菊地プラザです。

リンク貼っときます。

産交バス時刻表

高速道路で来るときには九州自動車道菊水I.Cか植木I.Cで下りてナビの指示に従ってください。

まとめ

かなり広い範囲で整備された、訪問しやすいお城でした。

夏休みの課題にでもいいかもしれませんね。

鞠智城は、城という言葉のイメージから受ける城塞は存在せず、いわゆる大陸系の城壁都市の造りです。当時の城はたいていこうなってます。

なんでこれが天守を持つ城塞につながったのか、興味はありますが誰かご存じないですか?今度調べてみよう。

文献にも載らない時代(古事記が712年、日本書紀は720年、続日本記は797年)で、なんなら大化の改新(646年)よりも古い話なんですよね。そもそも大化の改新そのものが、白村江の戦いの敗北を受けての情勢不安から発生したような流れです。いやはや本当に古い時代ですね。

こんな遠い過去に思いを馳せながら、遺跡を巡るのも面白いものです。

さて、次はどこに行きましょうか。

菊池城もさくっと立ち寄ったので、今度書きます。

ではまた。

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