みなさんこんにちは
久しぶりのお城です!
またしてもマイナー城跡といえる場所ですね。いや、熊本城とか行くんですよ?崩壊前にも行きましたし。
でも今回は有智山城跡です。
以前の城跡探訪はこちら
有智山城とは?
有智山(うちやま)城と読みます。現在、付近の住所は内山と読んでいるようですので、今でも読みは残っているということでしょうね。ですので内山(うちやま)城とも呼ばれるようです。
何か資料をと思いましたが、Wikipediaには有智山城の項目がありませんでした。残念。前回の長岩城はWikipediaに記載があっただけマシだったのか。
以下概要です。間違ってたら教えてください。
有智山城の歴史は古く、幕府より鎮西奉行を命じられた武藤氏が太宰府入りしたのが事の始まりのようです。その後、この武藤氏は朝廷より大宰少弐の官職を受け、名を官職名に由来する少弐氏と改めます。1196年(建久7年)の頃の出来事です。
城はこの頃築かれたようですが、はっきりとした築城年は不明のようです。
世の中は元寇・南北朝と続いて、それに応じ少弐氏は徐々に勢力を伸ばしていきます。その後も戦国時代までこの有智山城も戦の舞台となることがあり、度々落城の憂き目にも会っているようです。
1497年(明応6年)、大内氏・渋川氏によって攻撃を受け、少弐氏第15代当主、少弐政資は筑前を放棄します。これをもって少弐氏による有智山城支配は終わりを告げます。
その後の少弐氏は佐賀県にある多久城を頼ったり、熊本県に行って千葉氏の所領を奪いつつ再興してみたりと懸命に生き残りをかけて戦っていきます。しかし、少弐氏第17代当主・少弐冬尚が1559年(永禄2年)の戦で自害し、とうとう少弐氏は滅亡します。
問題は放棄された有智山城ですが、どうもその筑前放棄の時点で廃城にされたわけではなかったようなんですね。しかし、歴史の表舞台での活躍は見当たりませんから、出城として活用されたのではないでしょうか。
ここ付近には隣接する大山寺(有智山寺)を始め、多数の寺院があったようで、そこと連携もしくは時勢柄制圧用に使用されていたのかもしれませんね。
ふんわりした時代背景としては、筑前放棄が行われた明応年間には『美濃の大蝮』こと斎藤道三が産声を上げています。織田信長の奥さん(帰蝶または濃姫とも)のお父さん(つまり義理の父)ですね。ばっちり戦国時代が幕開けした頃です。
どこにある?
大体この辺りです。
縁結びの神様、竈門(かまど)神社から山に登ったところにありますが、宝満山登山口からは気持ち外れてるようです。ちょっと足を伸ばすコースなのかな。
登り口はいくつかあるようですが、竈門神社から上がっていく方が近いと思います。福岡市近郊の登山入門の山である宝満山を経由して行くルートもある、ということで。
宝満山自体がそれほど高い山でもないので、山登りがお好きなら、ついでに登っても良さそうです。
有智山城探訪
探訪というか、今回は結局たどり着けなかったんですけどね。
本当は竈門神社の中宮に行こうと思っていたのですが、途中の看板に『有智山城跡』の名前を見つけ、居ても立ってもいられず有智山城跡に行ってしまったのです。中宮は今度きちんと行きます……。
看板の通りに進むと、途中に有智山城跡の立て札が。もう少しかな、と思いつつ登っても、次の目印がやってこない。あれ?さっきの立て札のところだったのかな?となりつつ先を進むとやっと次の立て札が姿を現しました。
立て札の通りに進んでも、見えるものは高圧線と鉄塔・ソーラーパネルばかりです。歩けどもたどり着かず、700m先って嘘だろと思いながらもさらに先を進みます。
実はここまで色々撮影していたせいで、有智山城跡に向かう段階で既に夕方。しかも機材満載のショルダーバッグです。肩に食い込む重みと、バランスの悪さであまり長くは歩きたくありません。
それまでが日中の撮影だったこともあり、三脚を車に置いてきたのがまだましですが、リュックサックで来れば良かった……。最初から登る予定なら、そうすべきだったんですけどね。
不慣れな道でもありますので、引き返し時刻を17:15とします。あまり暗くなると道に迷う可能性もありますし(一応前日の撮影のまま懐中電灯は持ってた)、何より怖いじゃないですか。山の中で独りとか。
その時刻なら余裕をもって明るいうちに戻ってこれます。
立て札に従って先を進むと途中でいきなり舗装がなくなります。
歩くときに立て札があると安心するんですが、ここの立て札は破損していました。あてずっぽうで左に進みます。結果としては正解でした。
登りやすい道とはいえないものの、道なき道というほどでもなく登っていきます。こんな道とは思わなかったので、水分も大して持っていませんし、高カロリー食もありません。食事はともかく水分は困ったものです。やばくなる前に引き返すつもりで登っていきます。
途中、道なのか水が流れた跡なのかわからないところがありつつも割合順調に進んでいきます。
交差点に出ました。立て札は有智山城跡への案内しかありません。左を見ると、山門のようなものが見えます。ちょっと寄り道。
恐らくここが大山寺(有智山寺)山門です。辺りが薄暗くなって不気味さがかなり増していましたので、明るいときに改めて来ましょう。
交差点の反対側は行ってませんのでこちらも今度余裕があるときに。
途中で立て札を見つけつつ進みます。
肩がやや辛くなってきた頃、引き返す時刻も近づいてきました。焦る気持ちを押さえて登ります。成果があろうとなかろうと、今回は時間で区切ります。
そろそろ休憩して引き返そうかと思ったとき、石垣と空堀跡が現れました。
ここまで来たら先に行きたい、という気持ちもありましたが、下調べもせずにやって来て見つけただけでも儲けものです。今回は当初予定通り、引き返すことにしました。
ちょうど引き返す時間です。何も見てないですし、心残りはタップリありますが。
帰りはスムーズです。ソーラーパネルの反射が眩しいですが、暗くなる前に戻ってこれて良かった!
まとめ
今回は残念ながら、本命の場所までたどり着かなかったですが、有智山城跡がどこかはっきりしただけでも収穫です。
大野城・太宰府辺りは古城跡も多く、行きたいと思いつつ実は行けてない岩屋城(高橋紹運居城)なんかもありますね。岩屋城跡といえば、JR日田彦山線に筑前岩屋駅というのがあります。全く関係しない駅なんですが、筑前岩屋駅の側にも岩屋城跡の碑があったはず。どこかに写真があったと思うので、探してみますね。
この有智山城跡はもう一度行きたいですが、その後はどうしようかな。
それこそ岩屋城から宝満城(高橋紹運の次男・高橋統増居城)・立花城(高橋紹運の長男・立花宗茂居城)の高橋紹運・立花宗茂、はては島津軍の攻め手秋月種実の居城・秋月城もいいですし、筑後十五城を巡るのも楽しそうです。
筑後十五城は高橋紹運の義理の父、高橋鑑種の居城である下高橋城も含まれていますし、前回行った長岩城も含まれるのです。こうやってあちこちが繋がっていくのも楽しみのひとつですよね。
桜の季節になってきて、撮影も楽しみですがこんなお出掛けもワクワクしてきます。とりあえずは有智山城再攻略ですね。攻城戦だ!(←言ってみたかっただけです)
ではまた。